物理PhDが米国務省へ。海外では博士の専門性はどう使われている?
「物理の博士号を取った人は、どこで働くんだろう」
そう聞かれたら、大学、研究所、メーカーあたりを思い浮かべる人が多いかもしれません。最近なら、AIやIT企業を思い浮かべる人もいると思います。
私も、たぶんそう答えていました。
ところが先日、海外のPhDキャリアを見ていて、少し手が止まりました。
物理PhDの勤務先が、米国務省。
研究室ではありません。外交政策の現場です。
☕ Marinのひとこと
「物理PhD」と「米国務省」。
この2つが同じキャリアの中に並んでいるだけで、博士号の見え方が少し変わりませんか。
私が見つけたのは、American Institute of Physics(AIP)が募集しているState Department Science Policy Fellowshipです。
2026年は8月1日から10月1日まで応募を受け付けています。対象は物理、またはphysical sciencesに近い分野のPhDを持つ科学者・エンジニア。選ばれると、ワシントンD.C.にある米国務省本部で原則1年間働きます。年間91,000ドルのstipendと3,000ドルのinitial allowanceも設定されています。
AIP公式情報はこちらです。
もちろん、誰でも応募できるわけではありません。AIP Member Societyへの所属に加えて、米国市民または永住者であることなどの条件があります。
なのでこれは、「日本の物理博士におすすめの海外求人」という記事ではありません。
私が気になったのは、もっと別のところでした。
なぜ米国務省は、物理PhDを必要としているのか
AIPは、このフェローシップを設けている理由について、米国務省が向き合う外交問題の多くには科学的・技術的な要素があり、Departmentのscience and technology capacityを高めるためだと説明しています。
考えてみれば、外交と科学が離れた世界だった時代の方が、むしろ過去のものになりつつあるのかもしれません。
AIや半導体、量子技術、宇宙、エネルギー、気候変動など、国家間で扱われるテーマには、技術を知らないままでは判断しにくいものが増えています。
その技術は、本当にそこまでできるのか。出てきたデータをどこまで信じていいのか。研究段階の技術が5年後、10年後に社会へ何をもたらすのか。
外交の専門家だけで考えるには、かなり難しい問いです。
だから、科学を理解できる人を政策側へ連れてくる。
米国務省にはAIPだけでなく、科学・工学系の専門組織から専門家を受け入れ、科学技術の知見を政策形成へ持ち込む仕組みがあります。
U.S. Department of State:Professional Science & Engineering Society Fellows Programs
ここまで読んで、私は「物理の知識が評価されているんだな」とはあまり思いませんでした。
むしろ気になったのは、募集要項のその先でした。
研究者が「普通だと思っていること」に値段がつく
AIPの応募資格を見ると、scientific accomplishmentsだけではありません。
interpersonal and communications skills、sound judgment、decision-makingのmaturityが求められています。technicalとnon-technical、どちらの仕事にも対応できることも書かれています。
ここ、面白くないですか。
博士課程にいると、論文を読んで、分からないことを調べて、仮説を考えて、データを疑って、人と議論して、また仮説を修正する。
それを何年も繰り返します。
研究者本人からすると、「研究するためにやっているだけ」で、わざわざ能力として数えないことも多い。
ところが研究室の外へ持っていくと、同じ経験が違う名前で呼ばれます。
複雑な情報を理解できることや、不確実な状況でも判断できること。専門外の人にも分かるように説明できること。
同じ人なのに、置く場所が変わると、見える能力まで変わる。
🌿 Marinの独り言
研究室にいた頃、私も「専門性」と聞けば、研究テーマや実験手技をかなり強くイメージしていました。
でも企業へ行き、海外で研究し、違う場所から科学を見るようになると、「研究者として普通にやっていたこと」の中にも、研究室の外で使えるものがずいぶんあると感じるようになりました。
研究経験を研究室の外でどう捉えるかについては、以前こちらにも書きました。
「私は物理の人です」の、その先
博士まで一つの分野を研究すると、自分と専門分野がかなり近くなります。
「私は物理です」「私は免疫です」「私は有機化学です」。
この感覚自体は、とても自然だと思います。
私も長く生命科学の研究をしてきたので、研究分野が自分の一部になる感覚はよく分かります。
ただ、「私はこの分野の研究者です」が、いつの間にか「だから、この周辺の仕事しかできません」に変わってしまうことがあります。
実際の物理PhDの進路を見ると、景色はもう少し広いです。
東京大学物理学専攻では、2023〜2025年度の博士課程修了者226人のうち、約42%が国内外のアカデミックポストへ進む一方、約50%は民間企業や官公庁などへ就職しています。就職分野もメーカーだけではなく、IT、金融、シンクタンク、コンサル、マスコミなどに広がっています。
物理を博士までやったから、物理学者になる。
そんな一本道では、すでにないんですよね。
だからといって、「専門なんて関係ない」と言いたいわけでもありません。
物理を何年も研究したことは、その人にしかない大切な専門性です。
ただ、その専門性の中身を、研究テーマの名前だけで終わらせなくてもいい。
私はそこに、博士の海外キャリアを見る面白さがあると思っています。
HarvardのCareer Fairでも感じた「研究内容だけではない」という感覚
HarvardのCareer Fairに参加したときにも、PhDの企業就職では、研究内容だけではなく、「なぜその仕事をしたいのか」「自分は会社に何を提供できるのか」を、自分自身のストーリーとして伝えることが重視されていました。
研究発表では、データが主役です。
でも企業へ自分を伝えるときは、自分自身も説明しなければいけない。
これが、最初は少し不思議でした。
何を研究したのかだけではなく、その経験を持つ自分が、今度は何をしたいのか。
研究者が自分自身を企業へ伝えるという感覚については、こちらの記事に詳しく書いています。
☕ 海外ではPhDの企業就職をどう考えるのか気になる方へ
私がHarvardのCareer Fairで実際に聞いた、PhDが企業就職で求められることについてまとめています。
HarvardのCareer Fairで知った、PhDが企業就職で求められること
今回のAIPのフェローシップも、少し似ています。
応募時のLetter of Intentには、応募理由や科学者としてのtraining、professional backgroundだけでなく、public policyへの関心や、このポジションで自分がどう役立てるのかを書くことが求められています。
PhDだから採る、ではない。
PhDとして身につけたものを、そこでどう使えるのかまで見ている。
この違いはかなり大きいと思います。
日本でも、博士がいる場所は研究室だけではない
では、こういうキャリアはアメリカ特有なのでしょうか。
2026年3月に内閣府が公表した調査を見ると、日本の各府省にも2025年4月時点で2,076人の博士号取得者が在籍しています。
その内訳は研究職が37.8%ですが、行政職も29.2%あります。さらに今後博士人材を活用したい仕事として、国際交渉や、新しい技術に対応する政策立案も挙げられています。
内閣府「各府省等における博士号取得者の採用・活用に関する調査」
これは、アメリカと日本が同じだという話ではありません。
制度も労働市場も違います。
それでも、「博士は研究職で使う人材」という境界が少しずつ薄くなっていることは感じます。
新しい技術が社会を大きく変えるほど、その技術を理解しながら、企業、行政、政策、ビジネスの言葉で考えられる人が必要になる。
研究者側に「もっと視野を広げてください」と求めるだけでなく、社会の側にも「ここに博士がいたら何が変わるだろう」と考える余地がありそうです。
☕ Marinのひとこと
「博士にはどんな仕事が向いていますか?」という問いも大切です。
でも私は最近、「この仕事に博士が入ったら、何が変わるんだろう」と考える方が面白いと思っています。
海外キャリアを見るのは、海外転職するためだけじゃない
私は、海外キャリアの記事を「海外へ行きたい人だけのもの」にはしたくありません。
海外の求人や制度を見ていると、日本ではまだあまり聞かない仕事に出会います。
その仕事へ実際に転職しなくても、「そんな場所にPhDを置くのか」と知るだけで、自分が持っているものの見え方が変わることがあります。
海外の方が博士を高く評価する、と単純に言いたいわけでもありません。
研究機関、企業、行政、スタートアップでは、同じPhDでも期待されるものが違います。研究テーマそのものが価値になる場所もあれば、考える力、判断する力、人へ伝える力が前に出る場所もあります。
海外を見ることで、今いる場所とは別の角度から自分の専門性を眺められる。
私は、そこに海外キャリアを知る価値があると思っています。
研究は好きだけれど、研究職という働き方を続けることには迷いがある。そんな方には、こちらの記事も近いかもしれません。
博士から別の仕事へ移ること自体に「ここまでやったのに」という気持ちがある方には、こちらもどうぞ。
「物理PhDが米国務省」に、私が引っかかった理由
この記事を書きたくなったのは、「物理PhDでも米国務省で働ける」という珍しいキャリアを紹介したかったからではありません。
私が一番気になったのは、米国務省の側が「ここには科学者が必要だ」と考えて、そのための席を作っていることでした。
研究者本人が、自分の能力に新しい名前をつけたわけではありません。
社会の側が先に、「その考え方をここで使いたい」と見つけている。
そこが面白かった。
博士まで何年も研究していると、自分の中では当たり前になりすぎて、価値だと思わなくなっているものがあります。
でも、自分とは違う市場から見ると、それが価値になることがある。
海外のキャリアニュースを追っていると、ときどきそういう瞬間に出会います。
🌿 Marinの独り言
「海外にはこんな仕事があります」で終わるなら、求人サイトを見れば十分です。
私が知りたいのは、なぜそこにその人が必要なのか。
そこまで見ていくと、遠い国のニュースだったものが、自分の専門性を考える材料に変わります。
Marin Career Labでは、これから生命科学だけに限らず、物理、化学、工学、AI、IT、政策なども含めて、専門性を持つ人たちの働く世界がどう変わっているのかを追っていきたいと思っています。
「そんな仕事があるんだ」で終わらず、それを知ることで、自分の世界が少し広くなる。
そんな記事を増やしていきます。
今すぐ転職するわけではないけれど、少し先のことを考えている方へ
キャリアについて考え始めても、すぐに転職する必要はありません。
むしろ「転職したいのかさえ、まだよく分からない」という時期もあります。
キャリア相談をしていると、最初は「転職した方がいいですか?」という話だったのに、話しているうちに「転職したいわけではなく、この働き方を変えたかった」と分かることがあります。
反対に、「まだ辞めるほどではない」と話していた人が、自分の言葉を聞きながら「私はもう次へ行きたいんだ」と気づくこともあります。
🌿 Marinの独り言
キャリア相談は、誰かから正解をもらうためだけのものではないと思っています。
自分ではまだうまく言葉にできていないことを話してみると、「私はこれが嫌だったんだ」「本当はこっちへ行きたかったんだ」と、少しずつ輪郭が見えてくることがあります。
「このままでいいのかな」と思っている段階の方には、こちらの記事もあります。
研究職のキャリアに迷ったら|「このままでいい?」と思ったときに
一度だけ話しながら整理してみたい方は、Coconalaで単発の相談を受けています。
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今はまだ相談するほどではないけれど、博士や専門職のキャリア、海外の働き方、AIや産業の変化などを知っておきたい方は、LINEから新しい記事を受け取れます。
ABOUT MARIN
Marin|PhD(医科学)・Career Mentor
PhD(医科学)取得後、製薬企業での創薬研究、Harvard Medical Schoolでの研究を経験。現在もライフサイエンス領域で仕事をしています。
Marin Career Labでは、博士号取得後のキャリア、研究職からの転職、30代のキャリア、若手研究者の進路や学振などについて発信しています。

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